- 「自己責任」より「自助努力」という言葉がふさわしい?
- 「きちんとした生活」は「しつけ」の賜物
- 大学や職場で「常識」を教えてもらう日々
- 発達障害やIQ低めタイプは生きづらい
- 人の何倍も努力しても追いつけない現実
- 持って生まれた体力や金銭的余裕の違い
- 自助努力は誰しもが、し続けるもの
- 社会に適応するとは自分を曲げることな人々
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「自己責任」より「自助努力」という言葉がふさわしい?
最近、こんな話が盛り上がっていますが、私個人の考え方としては、「自己責任であるか?」とか「努力したか?」の問いって、自分が自分自身にすべきものであって、他人に言われる筋合いの話ではないんじゃないかと思うのよね。
本人が
- これは自分の責任だ。
- これは自分の努力が足りなかった。
とか思うのはいいと思うんだけど
- それはお前の自己責任だ。
- それはお前の努力が足りなかったからだ。
とか他人に向けて言うのは違うと思うのよね。
自己中心的なひとは、「人によって責任のとれる範囲や、努力の範囲は違う」ということに気づきません。自己中心的で自分を基準にするタイプの人達は当然のごとく「私にはこの努力はできたから相手もできるはずだ」と、勝手に決めつけてしまうのです。ですから、そこを気にしてたら、生きていけないんですよね。特にADHDの私なんかはね。
「きちんとした生活」は「しつけ」の賜物
私自身は、育児放棄でしつけらしいしつけを受けておりませんから
- 食事の後は歯を磨く
- 朝起きたら顔を洗う
- 人にあいさつをされたら挨拶を返す
- 外出するときは鏡を見て身なりをチェックする
- 自分の持ち物に会った収納設備を整え、収納する
といったような、人として基本的なことを知らずに18歳くらいまで生きてしまってたのよね。
だから、大学に入っても、歯も磨かず、身なりもがちゃがちゃ、何ならデパートにジャージで行こうとして「お前、それで行くの?」と、先輩に指摘されて「え?ダメなの?」みたいな調子でね。私が18歳まで住んでた地域にはデパートがなかったので、デパートに行くために服装を変えなければいけないって知らなかったんですよね。田舎者で育児放棄というダブルパンチでなかなかにエグい状態でしたね。
大学や職場で「常識」を教えてもらう日々
私は勤労学生だったので、大学に入ると同時に働き始めたんだけど、職場と大学の両方で「常識」と呼ばれる、社会への適応の仕方を教えてもらえたから、何とか社会に合わせることができる人間に育ちました。とはいえ、先輩にも上司にも一日は24時間しかないし、一年は365日しかないわけで、彼らも私の指導に当てられる時間は多くなかったわけで、私は指導していただいたことについて自分自身で勉強する必要もあったんですね。
私自身も勉強して社会に合わせていかなければという危機感を持ったからこそ、服装、マナー、言葉遣いなどを真剣に勉強したいと、秘書技能検定をとったりしたわけです。だけど、親に「しつけ」を受けていない若者たちに中には、人のアドバイス、指導を全く聞かない人たちもいて、無意識だったり、意識的にだったりはあったけど、ありのままの自分でいたいって頑張る人たちもいたのね。
風呂に何週間も入らず髪の毛はべたべたで(シャツのではなく肌のほうの)首に垢の首輪ができたままで出勤する子。本屋さんみたいなクレームが出やすそうな販売業でバスタオル一枚を巻いただけみたいな、肌の露出の多い洋服で出勤してくる女子とかね、いたのよ。本当に。
それも、本人が責任を取ればいい話ではあるのだけど、実際にクレームを受けて謝罪するのは上司で、本人では責任はとれず、上司が責任を取らなきゃいけなくなるんですよね。
そうすると当然、上司が彼らに注意するわけですが、それでも「私は自分のスタイルを貫きたいです。」という、人の言うことを聞かないタイプだったり、「面倒だから」「疲れているから」と風呂に入らないってタイプだと、にっちもさっちも行かなくなるのよね。
本人はやりたい放題で、責任を取るのは上司という無責任な状態になっていると、当の本人は気が付いてさえいなかったりするのよね。気が付いていても「上司なんだから謝るのは当たり前でしょ。」とか思っていたりね。そりゃ、叱られますがな。
私自身は人のいうことを聞き入れる発達障害なので、まあ嫌われはしなかったのが幸いでしたね。
私とそういった子たちの違いは何だったかというと、やはり差し迫った金銭的な事情があったかなかったかということが一番大きかったと思います。また、ASDの人はとくに自分のこだわりを曲げない気質が強いので、それも関係あるかもしれないと、今となっては思います。私はADHDなのでそこまで、こだわりが強くないのかもしれません。
発達障害やIQ低めタイプは生きづらい
話がそれましたが、発達障害、またはそれに類似したタイプには「自分の考えが強い」タイプ(ASDタイプ)とか、「面倒くさがり屋」タイプ(ADHDタイプ)の大まかに分けて2種類の種族がいるのね。そしてさらに、「そもそも物事の成り立ちや構造が理解できないタイプ」つまりIQ低めか、LD(学習障害)タイプが存在します。私の母がLDタイプで、何度教えてもキャッシュカードの使い方が分からず一生ATMで現金を引き出すことができず死んでゆきました。
そういったことに加えて教育環境がどうだったか、本人の思想信条がどう育まれたかがで人格や行動パターンが構成されていくと思うの。
私の場合は上記のように、そもそも歯磨きとか身だしなみを整える習慣がなかったので、正直、毎朝歯を磨いて身だしなみを整えるのが、面倒で面倒で仕方なかったのよね。発達障害の検査の結果だと「作業」が極端に遅い、つまり「作業」に極端に手間取るため苦手意識も強いという結果が出ました。ですから、私は面倒くさがりのほうの種族だと思います。今でも面倒くさがり屋で忘れっぽいからこそ、やるべきことを後回しにしないと意識するようにしているので、過去形ではないんですけどね(;´・ω・)
だから、私にとっては、
- 毎朝「歯を磨くんだ!」と忘れないように意識し、起床する時間を逆算し起床時間を早める訓練をすること
- 毎朝、鏡を見て身だしなみを整えるなら、時間が何分かかるか計測し、それを出勤時間に合わせて逆算し、起床時間を設定し、その時間に起きられるようになること
- 相手が、挨拶をしたということに気づいて、こちらも挨拶できるように常に意識しておくこと
- これら以外にも日常生活/日常勤務に必要な様々な事柄を、毎日忘れずにやり続けること
などなどの計算や訓練が、いちいち必要で、習慣づけされていないことだし、苦手な事だったから、面倒で面倒でたまらなかったんですよね。これらのことって、育ちの良い人たちからみれば「普通のこと」「当たり前」のことかもしれませんけど、なぜ、これらを当たり前と思えるかというと、育ててくれた人いたから、つまりは親が教え、訓練させてくれていたから「できて当然の事」と思えるのよね。
人の何倍も努力しても追いつけない現実
私は、こういった基礎訓練、つまりは「しつけ」を全く受けておらず、18歳からいきなりこれらの知識や、生活技術を詰め込み学習しなければならず、しかも、それらを精度高く毎回できるようになるってのは、かなりの訓練を必要としたわけです。
親がしっかりしている家庭で育った人達にとっては「当たり前」のことを、できるようになるためには、私にとってはとてつもない「努力」が必要だったの。 現代の若者たちなら、なおさら「え!?そっから!?」って驚く話なのかな?と思うけど、どうなんだろうな…
だから、歯磨きを毎日できるようになることに、そんなに努力が必要?と思う種族もいるかもしれないけど、私にとってはけっこうしんどい努力でしたね。毎日毎日、歯磨きや、身なりや、挨拶を気にして、かなり張り詰めた緊張した心理状態にありました。意識しなければすぐに身なりがくずれたり、挨拶されても気づかずに返事をしないありさまでしたから、気を抜いたら相手に失礼なことをしてしまい、職場にも迷惑をかけるからという一心で、頑張りました。
このような私の体験から、「え、そのくらいのこと、できて当たり前じゃない?」みたいな感覚は、本人の能力や環境によって全く変わってくるということを知っていただきたい。
持って生まれた体力や金銭的余裕の違い
それに、私はそもそも基礎体力がないので、実際に早起きするとか、風呂に入るとかってめちゃ体力を消耗してしんどいんですよね。正直、ご飯を食べるために咀嚼するのだって体力を使ってしんどいので、食べるのがしんどい時はプロテインの粉を水に溶いて栄養を摂取したりしてるんですよね。特に年老いた今はね。だから、「面倒」だと感じてしまうのも基礎体力の低さも関係あるかもしれないので、難しいところなんですよね。
さらに、私はずっと飲食業がメインだったので立ち仕事で、一日中立っているだけでもしんどかったですね。さらにキッチンでもホールでも汗をかくくらい歩きまわり、店によっては20キロくらいの食材を運んだりしなければならなかったりして、仕事自体が体力を消耗するので、身だしなみに体力を使うのが死ぬほどしんどかったですね。
飲食店で働く時はまかないがあったりしたのですが、事務仕事についていると食事を作るのがまたしんどくて、でもコンビニ弁当では栄養が偏っているし、私の時代には宅配弁当なんてなかったし、あったとしても一食400~500円と高すぎて買えるはずもないという現実が待っていただけなのよね。
親の家に住んで家賃が必要ない人や、親の家の冷蔵庫の食糧を許可なく食べられるような家の若者をどれほど妬んだか分かりません。それだけで7~8万の生活費が浮くわけですからね。
自助努力は誰しもが、し続けるもの
だけど、「自分の能力が低い、環境が悪い」から、つまりは「マイナススタートだった、ゼロスタートだった」って理由で、大して前には進めないんだから前進するための努力すらしないってのも、また極端な話で、ちょっと違うんじゃないの?とは思います。
人は人、自分は自分と切り分けて、自分にできる最大限の努力をしている人を、助けたり、かばったりしないほど、人間は冷たくないと思います。お前はそういう環境にいられたから、そんなこと言ってられるんだ、と言われてしまえばそうなのかもしれません。「かわいそうランキング」の中ではセレブなほうだろ!という妬みの言葉を受けるのかもしれません。
だけど、よろしくない環境にいる人たちの手をつかんで引っ張り上げたくても、差し出した手を振り払いその環境に居たがる人達に「お前らは環境がいい、恵まれてるから、俺ら/私らの気持ちなんか分からないんだ!」とののしられたところで、「いやいや、だからこっちにおいでって、手を差し出してるんじゃん」という話になるわけです。そういう方たちを忍耐強く説得したところで、言い分を聞くに、結局のところ本心では、多少は自助努力を求められるこっち側の世界には来たくはないんでしょ?と思ってしまいます。
社会に適応するとは自分を曲げることな人々
「助けてほしい」「変わりたいと」と本人が言ってるからこそ手伝うわけなんですけど、いざ動き始めると自分や環境を変えるのってめちゃ苦しいですから、手伝う側はイライラ攻撃を受けちゃうのよね。攻撃されるのも、多少は慣れてきますけど、決して気分の良い事ではないですし、こちらも人間で、感情ってものがありますからね。そりゃ、耐えますよ。徹頭徹尾、耐え抜いて一切反撃しないスタイルの人もいますけど、私は複数回の説得を試みても効力がなく、強く言わないと分からないタイプには強く言っちゃうスタイルですね。
自分と向き合うってのは辛いことだけど、自分と向き合う苦しみから逃げるために、他人や社会を責めてるうちは、責められた他人側も苦しいので、相手を助けようという気にはなれないというのが、一般的な人間の感覚だと覚えておいた方がよいとは思いますね。それに、
なんだかんだと言っていても、本心では自助努力を続けなければならない世界に来たくない人たちもいますから、そういう人たちは、おのずと他人をののしったり、断罪しているだけでいい「他責の世界」へもどっていきます。そっちの世界にいれば一緒に「誰か」をののしってくれる仲間がいますからね。きっと、それが彼らの幸せなのです。
最後の砦は教育や医療/福祉の分野で頑張っている人たちですけど、消耗もはげしそうですね…
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■本人が努力しても、マイナススタートだときついっていうお話です。
■「面倒なこと」をできるようになろうと努力しなかった結果、トラブルが起こったというお話と合わせて読むと良さげです。