良質節約生活 100万円/1年

「旧:高円寺ららぁ」は「せとちよ」に改名いたしました。

天涯孤独・精神疾患・二人部屋の寮生活からお金の心配がなくなるまで

 

ヤングケアラーだった幼少期から思春期

 私の家は重度の統合失調症の父を持つ父子家庭でした。母は度重なる父の暴力と貧困で家を出てしまったので、父子家庭でした。

 私は今でいうところのヤングケアラーで、父が統合失調症の症状で外で問題を起こして、警察に捕まるたびに警察に足を運ぶような生活でした。

 父の病気のため、私は父に肉体的にも精神的にも暴力を振るわれ虐待されていた子供でした。自分を虐待している父を警察まで迎えに行かなければいけない子供心はとても複雑なものでした。

 小学校の頃は、ただただ「死にたい」「死にたい」と思っていました。又、隣に住む祖母にも暴力を振るわれていたので、一家を虐殺してしまいたいと思っていました。

 ですが中学生になると、こんなカスみたいな家族を殺して自分が犯罪者になるなんて馬鹿みたいだ、私だけ幸せになってやると思うようになりました。

 私だけがこの家から抜け出して幸せになることが家族への最大の復讐だと思うようになりました。

 ですが、育児放棄と虐待、そして貧困の家庭で育ってきたので、何をすれば普通の暮らしが手に入るのか全く知りもしませんでした。

大学に入ればお金持ちになれると思っていた

 育児放棄で精神的に問題のあった父と祖母と暮らしていたために、家族と会話をしたこともほとんどなく、家族で食卓を囲むといったようなこともなかった私は、とてつもなく常識を欠いた人間に育っていました。

 中学の時に、このイカれた家族から逃げ出して、まともな生活をすると決めてからも、具体的に何をすればいいのかまでは分かりませんでした。

 私は広島に住んでいたのですが、広島大学と言えば国立大学で、国立大学と言えば頭のいい人が入る大学だと思っていました。高校に進学した私は私の高校の進学実績に広島大学があることを知り、「頭のいい大学に入れば幸せになれる」と短絡的に考え、必死に勉強しました。

 ですが、大学に行くにはお金が必要です。私は、大学に行くことは決めていましたが、最初から働きながら行ける大学しか探していませんでした。

 なぜなら、私の家は徹底した男尊女卑の家系で、「女が教育なんか受けるものではない。」という考えで、学費を出してくれるはずなどなかったからです。

 統合失調症の父には中学を卒業したら高校に行かずに働けと言われていたほどでした。そんな家が、女である私のために学費など出してくれるはずがありませんでしたし、出せるお金もありませんでした。

二人部屋の寮生活から大学生活が始まる

 私は高校で「絶対に大学に行って幸せになってやる!」と、必死に勉強しました。そして、働きながら通える広島大学の夜間部に入学することができました。

 私は、大学を受験したことを父にも祖母にも伝えていなかったのですが、大学の合格通知が郵便で届いて、それを父が勝手に開封して私が大学に合格したことがバレてしまいました。

 私は、大学合格がバレて、父にひどく殴られ、その次の日に段ボール箱5個に必要最低限の荷物を詰めて、タクシーで家出しました。そのお金は、隠れて数カ月に一回会っていた母からもらっていたお金でした。

 そして、私は大学寮に申し込んでいて、その入寮許可が出ていたので、寮に向かってタクシーを走らせたのでした。

 寮は八畳ほどの部屋に二人で住む二人部屋でした。狭すぎて写真に納まりきりませんでしたが、これがその二人部屋です。両側に畳ベッドがあるのがお分かりでしょうか?

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 私は、朝の5時に起きて6時出勤の電車の車掌のアルバイトをしながら、夜に大学に通っていました。

 昼間が立ち仕事だったので、夜は眠くて船をこぐこともしばしばでした。新しい職場で働くということは仕事を覚えるのだけでも大変なのに、そこに大学の難しい勉強も相まって、常にノイローゼ気味でした。

 とにかくお金がないので、授業料免除と奨学金を手に入れるために良い成績をとることに必死でした。一定以上の成績をとっていないと授業料が免除にならないので、良い成績をとらなければ…と、いつも試験前はピリピリしていました。

勉強がつらくて海外逃亡

 当時、国立大学の夜間部は5年制だったのですが、4年目を終えてほとんど単位をとり終わり、ゼミの単位もとったところで、仕事と勉強の毎日に嫌気がさして心が折れてしまいました。

 私は学校の先生になろうと思って教員免許をとろうと思って大学に行ったのですが、夜間部で昼間に働きながら教員免許を取るということはとても大変で、挫折してしまったこと、教育学部の学生が頼りなさそうで、将来こういう同僚と働くのかと思うと嫌気がさしたことで、教員になるという夢を失ってしまいました。

 そして、4年間にわたる昼は仕事、夜は大学という生活に疲れ果てて、1年間休学して、海外への渡航費を稼ぎました。留学をすればよかったじゃないと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、私は大学に入った時点で親と縁を切っているのでそんなお金は用意できません。ですから、働きながら海外に住めるワーキングホリデービザを取得することにしたのです。

 当時はワーキングホリデー申請には80万円の預金残高証明が必要で、他にも飛行機代、海外での住居費、日本に戻ってきた際の賃貸の住居を借りる敷金礼金などを貯金せねばならず、1年休学し働いてその資金を貯めました。そして1年間オーストラリアのシドニーでリフレッシュするのでした。

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 オーストラリアでの生活はリフレッシュと決めていたので、特に貯金などもせず、働いてはいたものの仕事以外は遊びほうける楽しい日々を過ごしていました。人生で一番楽しい時期だったかもしれません。

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 シドニーに住み始めてすぐに、ミュージシャンの彼氏ができて、彼の口利きでナイトクラブのドアマンに自分の名前を言えばチャージ代金無料で店に入れてくれるようになったので、色んなナイトクラブに行っては飲んで踊るのが常でした。

 海外生活といえば、うらやましがる人もいますが、働いて帰って寝て、働いて帰って寝て、週末に踊りに行ってというルーティーンは日本にいた時と変わらず、どこに住んでも、生活とはこういうものだと学びました。

30代で人生の迷子に

 日本に戻り、大学を卒業した私ですが、幼少期の虐待の影響か、情緒不安定がひどくなり、28歳の時に精神科に駆け込みました。

 父、祖母、母、私の家系には、こうなりたい、と思えるような家族は一人もおらず、まともな暮らしができている人も一人もおらず、父親に至っては自殺しているので、私もまともな人生を歩めないのではないかという不安でいっぱいになってきたのが30歳前後でした。

 一番ひどい時には大量服薬を繰り返し、ろれつがまわらなくなり、まともに歩くことともできなくなっていました。それでも、通っていた病院が小さなクリニックだったため、入院することもできず、生活保護も勧められず、ただただ、アパートで衰弱して寝ている状態でした。その当時は精神障害の1級で8万円の障害基礎年金がもらえていたので、それで生活をしていました。

 ただ寝ているだけでしたし、アパートの家賃が3万円だったので1カ月8万円でも十分に生活ができたのです

 ですが、衰弱していてスーパーに買い物に行くのも大変だったので、栄養失調で道端などで気を失って倒れてしまうこともしばしばで救急車の常連でした。

38歳で12歳年下の夫に出逢う

 そんな、精神疾患真っ只中の中でも、調子が良くなったら働き、悪くなったら辞めて寝込むという生活を続けていました。

 比較的調子のよかった頃に気まぐれでインターネットゲームを始めたら、ゲーム内で親しく遊んでくれる男性ができました。私はもともと、大学時代の学友達が関東に多く出ていったので、時々関東に遊びに行っていました。

 そのゲームで知り合った男性も関東だというので、私が関東に友達に会いに行くついでに彼にも会うことにしました。彼が26歳、私が38歳の時でした。

 インターネットゲームでは基本的にはみんな個人情報を明かさずにプレイしています。やはり、身元を見知らぬ人に知られては危険ということでです。

 関東で初めて夫に出逢った時、私たちはお互いに何も知りませんでした。お互いの経歴も年齢も何もです。ですが、一緒に映画を見たりと楽しい時間を過ごす中で、夫のほうが私と付き合いたいと思ってくれたみたいです。

 ですが、私は夫のことがタイプではありませんでしたし、12歳も年上なのでお付き合いするなんて現実的ではないと、最初は固くお断りしていました。ですが、夫がとても熱意をもって交際を申し込んでくれたので、私は自分の精神疾患についても話して、これで、夫は引いてくれるだろうと思っていました。

 ですが、夫が引くことはなく、「精神疾患でも俺が支える」と、私と交際したい意思をがんとして曲げませんでした。

 精神疾患だと分かっていて、12歳も年上だと分かっていて、こんな太った中年女と付き合いたいと言ってくれる男性はそうそうは現れないだろうと私も腹をくくりました。

 とはいえ、関東に友達も何人かいるし、関東に住んでみたかったし、という軽い気持ちで関東に引っ越してきました。そして夫が私の家に転がり込んできました。

 私は12歳の歳の差があるし、私が精神疾患で寝込むことが多いので、2~3年で夫のほうが飽きてというか、あきれてというか、そういった形で別れるものだと思って夫と暮らしていました。ですが、夫は、ずっと結婚したいと言い続けてくれました。

20代だった夫がキャリアアップして裕福に

 20代で収入も少なかった夫と暮らし始めた頃は、私も精神科の医師の反対を押し切ってパートで働きに出ていました。

 夫はもともとビジネスセンスがなく、学も低かったので、履歴書の書き方、ビジネス文書の書き方、プレゼンの仕方、会社の選び方など、夫が転職する都度アドバイスしていました。

 そして何社が夫が転職するたびに、給与を上げていき、今はIT企業でそこそこの給与をもらい、それなりの地域でそれなりのマンションを買い、私はのんびり専業主婦をさせてもらえるまでになりました。

 私は、夫に経済的にお世話になっている身ですが、夫は私が20代に夫を仕事面でも支えたことをよく覚えてくれていて「ちよちゃんのおかげで今の俺はあるから、恩返しがしたい。」と、とても親切にしてくれます。

 私はADHDですし、精神疾患も現在も治っておらず、寝たきりになることもしばしばです。

 ですが、あきらめずに生きていれば、私のように運よく誰かに拾ってもらえることもあるのです。

 この文章を、30代の絶望していた頃の私自身に読ませたいと思うことがあります。将来のあなたは優しい夫に支えられて生きることになるんだよと。

まとめ

 私自身もそうでしたが、精神疾患だと色んなことをあきらめがちになります。ですが私は勇気をだして、関東に引っ越して12歳年下の男性に身をゆだねたことで安泰な生活を手にいれることができました。

 誰にでも、チャンスがやってくるときがある。その時を見逃さないように、注意深く生きていきたいものです。

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