幼稚園児の時に母にしてしまったことで、私の中で忘れられないシーンはこの2つの他にもう一つある。
それは離婚の話し合いのために母方・父方の親戚が集まった時のことだ。祖母の家に母方、父方の親戚、そして弁護士がいた。総勢10人くらだったように思う。そこに私と私の男兄弟がいた。(具体的に誰がいたのかは、大人になってから母から聞いた。)
基本的に私はこの男兄弟について触れない。彼とは父と母の葬式以外では数十年間、話をしていないし、音信不通だ。だが、彼が死んでいなければ生きているはずだ。親族はある時点で我が家と縁を切ったので、ある時期からの我が家の様子は知らない。そして、我が家の家庭事情を詳しく知っている人で、生きてる(推測)のは恐らく彼だけだ。彼が生きている可能性がある以上は、彼が特定されたり、彼に私を特定されたりされたくない。そんなこともあって、時系列を詳しく書いていなかったりする。だが、今回は彼を登場させないと話ができないので登場させる。だが、基本的には今後も彼については極力触れないので、あれ?その時あの男兄弟は何をしてたの?という疑問は胸にとどめておいてほしい。
そして、贖罪の話に戻す。その親族会議では、父と父方の祖母は離婚も認めない、もし離婚するとしても子供はうち(父方)で引き取ると言って聞かなかったらしい。だが、父方の親族も母方の親族も離婚に賛成し、子供は母親が引き取るべきだという意見でまとまりつつあった。だが、父と父方の祖母(父の母)が強烈な人だった。
じゃあ、離婚は了承ですね、子供は母親が引き取るといういうことで解散…となった途端、父が男兄弟を押さえつけ、祖母が私を押さえつけ、「絶対に子供は渡さない。」と私達を逃してくれなかったのだ。
父が怒鳴って暴れようとして、それを制御しようと母方の叔父が「なにぃ!」と立ち上がろうとした。すると父と母方の叔父がつかみ合いになると思ったのか、今度は父方の叔父がおもむろに立ち上がった。優しいところしか見たことのなかった叔父たちが、そんな暴力団のような威嚇をしあっていることに、ちびっこだった私はとても驚いた。あんなに優しいおじさんたちが…と。人には優しい顔だけでなく怖い顔もあって、人間には隠している色んな顔があるのだとその時に学んだ。結局は、叔母たちが「落ち着いて!」ととめに入り、乱闘だけは避けられた。
最終的に母方の親族も、父方の親族も父と祖母が異常なのを知っているので、もう誰もとめられなかったのだろう。話し合いでは母に引き取られる話になったのに、父と祖母の暴力的な行動によって、私と男兄弟は祖母の家から出られなくなった。要するに軟禁だ。結局、最終的には暴力が勝つのだ。私はあの時それを学んだ。暴力の強さというものを学んだのだ。私はこの時から殺るか殺られるかの世界線で生きるようになった。
私も男兄弟もまだ小さかったので、ワンワン泣いた。「おかぁーさーん!おかぁーさーん!」と泣きじゃくった。それは恐らく数十分に渡ったのだろう。その場にいた父方の親族が私達を落ち着かせるために街に行ってオモチャを買って帰ってくる来る程度の時間は泣いていたようだ。
そして、父方の親族は私と男兄弟に「ほら、オモチャだよ。」と、オモチャを渡した。男兄弟は泣き止まなかった。だが、私は彼よりも小さかったのでオモチャに興味を示して泣き止んだ。
私は小学生の頃、そんな即物的な自分が許せなかった。オモチャを貰ったくらいで泣き止んでしまった自分が許せなかった。男兄弟は泣き止まずに抗議を続けたのに、私はなぜ泣き止んでしまったのだろう。もっと長い時間泣き続けて、抗議を続けていれば、母のところに帰してもらえたのではないか?と思っていた。「自分は母よりもオモチャを選んだのだ」と潔癖に考えた。今考えれば、何時間泣こうが母の元には帰してもらえなかっただろうと分かるが、当時は小学生だったので、自分自身に対して非常に潔癖だった。今はもう、そんなことはどうでもよい。大したことではないと思えるが、小学生の頃はかなり気に病んでいた。
私は幼稚園児だったにもかかわらず、母との別れで「自分の責任ではないか?」と感じることについて、自分を責めていた。
そして、それはいつくらいまでだろう、20代くらいまで尾を引いていたのではないだろうか。私の、自分を責めてしまう性格、生きていてごめんなさいの感覚は、もうすでにこの頃から始まっていたのかもしれない。
◆その後、母方(の祖母)も裁判所で争う構えだったらしいが、その当時はそんな父親でも母親よりは経済力があると見なされ、法的に争っても父方が勝つと言われ、母は泣く泣く諦めたそうだ。今とは真逆で、当時はどんなに父親に問題があっても、経済力があるのは父方だと見なされ、親権は父方に奪われやすかったのだそうだ。母がそのように証言していた。
当時、父親は長らく働いていなかったらしいし、その後も働か(働け)なかった。経済力はないと見なされた母は、離婚後、わずかな給料のために、一か月に2日の休みで定年まで働き続けた。母はいつも「休みが少ない、盆も正月も休めない。」と嘆いていた。それでも、ドドドドド田舎で、就業経験もなく、コミュニケーション能力に難があり、学習障害で読み書き・計算ができない中年女が就ける仕事といったら、そんな条件のところしかなかったのだろう。彼女はその生活に耐えて死んだ。
なのに当時の法の下では、過去に労働経験のある父なら再就職の可能性があるが、生まれて一度も働いたことのない母は経済的に自立できる可能性は低い(無い)とみなされた。そして子供を夫に奪われた。私はそれが許せない。時代によってこれほどまでに法の解釈が変わるのかと思うと、何も信じられるものなどないとさえも思える。
子供の取り合いは、いつの時代も子供の心に大きな傷を残す。そして、私は「女性は働かないと地獄を見る。」という教訓を、この時に無意識に学んだのではないかとも思える。
おわり
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