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川越さつまいもが有名になったのはなぜ?特産品なの?理由は?川越いもの歴史

 

川越いもとは

 私は関東出身ではないので、川越がさつまいもで有名とは知りませんでした。ですが、現在では川越はさつまいものイメージが定着しており、観光地や駅ではさつまいもに関するおみやげ物がたくさん販売されています。

 川越でさつまいもの栽培が盛んに行われるようになったのは江戸時代(1751年頃)からで、当時「川越いも」とは、武蔵野台地の川越藩とそこに隣接する領地の村々で作られるさつまいものことを指していました。現在で言うと、川越市、所沢市、狭山市、新座市、三芳町に当たる広大な土地のことを指していたのです。

 これらの地域では、1751年にさつまいもの栽培が開始され、昭和30年代まではさつまいもの生産量が群を抜いて多く、さつまいもの一大産地でした。1751年とは、さつまいもの栽培普及に尽力した青木昆陽(あおきこんよう)が、さつまいもの栽培法を確立してから16年後のことでした。
 ですが現在の川越では、ほうれんそう等の葉物野菜に押されて、さつまいもはあまり栽培されていないのが実情です。

もともとは飢饉のための国策だった

 さつまいもの原産地は中南米地域とされており、日本には1605年に沖縄(当時は琉球)に伝来し、やがて鹿児島(薩摩)へ伝わりました。
 その後、1732年に「享保の大飢饉」が起こり、日本全土に被害をもたらしました。ですが、享保期に薩摩国ではすでにさつまいもの栽培が普及定着していたと推測されており、そのさつまいも栽培の普及が、「享保の大飢饉」から薩摩国の人達を救ったとされています。

 当時の将軍・徳川吉宗はさつまいものの栽培を推奨する「蕃藷考」を書いた青木昆陽(あおきこんよう)を「薩摩芋御用掛」に任命し、さつまいも栽培の推進を命じました。

 昆陽は京都で学んでいた頃に、書物によって甘藷(さつまいも)が救荒作物(※1)として重要であることを知りました。昆陽は甘藷を栽培して救荒食(※2)とすべきことを江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に上書し、これが認められて「薩摩芋御用掛」に任命されました。

 さらに、甘藷試作地として下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(小石川植物園)、上総国山辺郡不動堂村(現在の千葉県山武郡九十九里町)が選定され、さつまいも栽培が開始されました。昆陽が江戸へさつまいもを伝えたのは享保19年(1734年)のことだとされています。享保20年(1735年)には「蕃薯考(ばんしょこう)」を発表し、元文元年(1736年)には「薩摩芋御用掛」を拝命し、身分が幕臣となりました。

 飢饉の際の救荒作物としての「甘藷(さつまいも)」栽培を普及させた昆陽は、後世では「甘藷先生」と称され、甘藷の試作が行われた幕張では昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さま」として祀られています。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑も建てられています。

※1、※2:飢饉、戦争などで食料が不足した際に、その食料不足をしのぐために間に合わせで食料として利用される植物のことを指す。

川越いもはなぜ有名になったの?

 川越いもが有名になったのは、寛政時代(18世紀末)のことで、この頃の江戸では焼き芋が大ブームとなっていました。

 当時、砂糖は超高級品で「甘い」食べ物が少なかった中、さつまいもが庶民の食べられる食料の中では、数少ない甘い食べ物であったことが理由のひとつです。そしてもうひとつの理由として、さつまいもがとても安く手に入ったことが理由にあげられます。

 江戸まで約30㎞と比較的に近く、新河岸川の舟運を利用し、江戸に大量のさつまいもを運搬できたことで、川越産のさつまいもが江戸で大人気となったのです。かさばる上に重たいさつまいもは陸路で運ぶことが難しく、船便で運ぶのが一番効率が良かったのです。

 「川越いも」は「本場物」と呼ばれ、他の産地のさつまいもより質がよく最高級品だとされ、江戸では大人気でした。当時の焼き芋屋では、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」というキャッチコピーが作られるほど大人気でした。「十三里」とは、川越から江戸の距離を指し、川越から運ばれてくる「さつまいも」のことを比喩したものです。

 このように質も良く、流通量も多かったことで、天保時代(1830年頃)の書物「諸国名物番付」には、さつまいもの代表産地として川越地方が記載されていました。この辺りから、「川越=さつまいも」のイメージが定着したのです。

川越イモの起源は?

 初めて川越いもが栽培された場所は、現在の所沢市・南永井という地域です。現在は所沢市となっていますが、昔は大きく川越地域としてくくられていたようです。
 その土地の名主、吉田弥右衛門は、当時のさつまいも栽培の先進地である上総国志井津村(かずさのくにしいづむら、現在の千葉県市原市椎津)から種イモ200個を取り寄せ、栽培を始めました。これが川越いもの起源となっています。
 吉田家には、今でも、当時のさつまいも栽培の様子を記録した古文書(吉田家文書)が残されており、所沢市の文化財に指定されています。また、吉田家の庭には「川越いも始作地」の記念碑が建立されています。

川越いもの栽培方法

 川越いもの栽培方法については、川越地方の赤沢仁兵衛が確立しました。仁兵衛は、種イモの選び方、肥料のやり方、うねの立て方などサツマイモを作る行程について、慶応2年(1866年)から研究を開始し、「たくさんイモができる、形・色の良い苗を選ぶ」「うねを高くする」「堆肥をたくさん入れる」など、現在に通じる栽培方法を見つけました。明治4年(1871年)の調査では、仁兵衛の畑では他の畑の1.5倍から2倍の収穫量があったという記録が残されています。
 仁兵衛は、「赤沢式」と呼ばれた栽培方法を惜しむことなく広め、明治43年(1910年)、73歳の時に「赤沢仁兵衛・実験甘藷栽培方法」というさつまいも栽培に関する書物を残しました。

まとめ

 上記の通り、川越いもが大量生産されていたのは昔の話で、現在の川越の農業事情はほうれん草などの葉物野菜が中心のようです。

 ですが、埼玉には未だにいくつものブランドさつまいもが存在するので、様々なブランド芋を食べてみるのも楽しいと思います。

 川越の小江戸観光に行くと、お芋チップスやお芋ソフトクリームなど、さつまいもの商品がたくさん販売されており、食べ歩きを楽しむことができます。おみやげ物として、さつまいも餡のお饅頭なども販売されていますので、ぜひ「川越いも」のグルメを楽しんでみてください。

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