川崎市立「日本民家園」とは
川崎市立日本民家園は、急速に消滅しつつある古民家を末永く将来に残すことを目的に、昭和42年(西暦1967年)に開園した古民家の野外博物館です。
日本民家園では、東日本の代表的な民家をはじめ、水車小屋、船頭小屋、高倉、能祖運歌舞伎舞台など25件の建物を見ることができます。さらに昔の民家生活をしのんでいただけるように、園路には道祖神、庚申塔(こうしんとう)、馬頭観音、道標などの石造物、また民家内には農具や生活用具類を展示しています。
民家は生活の発展に応じて、様々な改造が加えられます。日本民家園に移築した民家は、このような改造部分を解きほぐす復元調査を行い、原則として建築当初の古い形にもどしています。
川崎市立「日本民家園」の入場料は?
一般500円、高校生・大学生300円・65歳以上の方300円(いずれも要証明書)、中学生以下・川崎市在住の65歳以上の方(要証明書)は無料です。また、障がい者(要証明書)とその付き添い者1名も無料となります。
川崎市立「日本民家園」の展示民家
川崎市立「日本民家園」の野外には全国から移築された23棟の古民家が展示されています。
元々古民家が建っていた地域は、以下の通りです。
- 宿場
- 信越の村
- 関東の村
- 神奈川の村
- 東北の村
- その他建造物(高床式倉庫、便所、水車など)
概要はパンフレットに記載あり
古民家が23棟建ち並ぶ「日本民家園」ですが、入場の際に入場券と一緒にこのようなパンフレットが渡されます。このパンフレットは広げると新聞半分くらいの大きさで、「日本民家園」の概要について詳細に記述されています。
パンフレットには地図や建築物の外観はもちろんのこと、住宅の(元)所有者の名前、旧所在地、上棟時期、「国・県・市」のいずれの重要文化財かなどの情報の他に、ひとつひとつの古民家の特徴も記載されています。
また、実際に展示されている古民家の近くには、日本語と英語で書かれた建築物の説明書きの立札があり、そちらで詳細を知ることができます。
オンシーズンには説明員が常駐
私達夫婦はゴールデンウィークに「日本民家園」に行きました。ひどく混んではいましたが、休日ならではのイベントの数々が開催されていて、閑散期にはない楽しみがありました。
各所に腕章を着けた「説明員」が配置されており、古民家を見学していると、その場にいる説明員が先方から声をかけてくれて、立札には書かれていない詳細な説明をしてくれました。今回は、説明書きには書かれていない当時の人達の生活の知恵など、説明員が紹介してくれた豆知識をご紹介したいと思います。
原家住宅
江戸時代の流れを汲む、木造建築技術が高度に発達した明治時代後期の建物で、完成までに22年の歳月を費やした豪壮な二階建て住宅です。
この日には「民技会(民具製作技術保存会)」の展示即売会が開催されていました。
畳敷きの部屋には数々のバッグや小物などが展示されていました。
井岡家住宅
愛知県の柳生街道に沿って建てられていた油屋です。正面に油の壺の看板に「油」と書かれているのがお分かりでしょうか?
油屋のお店に入るとすぐに「井岡」の暖簾が垂らしてあります。商業空間と生活空間を分ける意味合いがあったのかもしれません。
建物の正面に丸太格子や「あげみせ」という、商売を行なう部屋が設けられています。
こちらが番頭が会計をしたと思われる「店(みせ)」の部屋です。
この家の間口は4間で、それを床上と土間部分とで二分割し、縦一列の平面としています。
こちらが店の奥の生活空間です。
土間にはかまどが設置されています。
佐地家の門・供待(ともまち)・塀
こちらは武家の門です。
私達夫婦は最初はこの部屋を見て「小さい家だねー。」と話していました。この部屋は3畳程度の広さで、簡易な収納家具が置かれているのみでした。
ですが、よくよく説明書きを読むと、この建物は武家屋敷の「門」にすぎず、実際には250石取り尾張藩士の武家屋敷入口の一部だということが判明しました。門の形式は切妻屋根の棟門。供待(部屋の名称)は主人のお供がその帰りを待つ控え場所であり、門番部屋でもありました。
この門の奥の部屋には、藩士が乗ったと思われるカゴも展示されていました。
囲炉裏の火起こし体験
ゴールデンウィークであったため、いくつかの古民家では囲炉裏で火をくべる体験会が行われていました。この古民家では、おそらくスペイン人と思われる外国人の方達が囲炉裏体験をしていました。
囲炉裏体験では、説明員が英語で「まいぎり式火起こし器」での火の起こし方を説明していました。
身分や地域によって天井が違う
田舎の農家などでは、天井の梁ががむき出しなのが当たり前ですが、
武家屋敷や商家ではこのように天井板が張り付けてある部屋もありました。富裕層の家では全ての部屋に天井板が張り付けてありましたが、そうでない家では、主人の部屋、客人をもてなす部屋のみに天井板が張り付けてあったそうです。同じ家の中でも、家人の位によって部屋の天井板のあるなしが決まったりもしたようです。
古民家と宗教
昔は自然現象に抗う術がなかったため、信仰心が強い人が多かったようです。この古民家には神棚や仏壇がありました。
山田家住宅
越中ご箇山村の桂集落から移築した合掌造りの古民家が「山田家住宅」です。
浄土真宗の信仰が篤い地方であったため、立派な仏壇を持ち、
さらに「仏間」も有する間取りでした。この仏間は「おまえ」と呼ばれ、お客をもてなしたり、仏事を行なう際に利用されました。
地域や身分によって違う床
都会の商家が武家屋敷では、畳敷き、板敷きの部屋も見られますが、田舎の農家では地面の上にわらを敷き、その上にむしろを敷いただけの簡易な居住空間も見られました。この地域ではこの場所を「いどこ」と呼んでいたようです。
山田さんちの便所
昔はトイレは不衛生であったり、排泄物が畑の肥料として使われたため、家の中に設置されておらず、家の外に別棟として建てられていました。こちらのトイレは富山県南砺(なんと)市から移設された、昔のトイレの建物です。
こちらが「山田さんちの便所」の説明書きです。スマホで拡大すると読むことができます。昔はおしりをわらや、フキやよもぎの葉で拭いていたそうです。植物の葉でお尻を拭くと、排泄物と植物の混合物が良い肥料となり、非常に合理的だったそうです。
火薬や絹で納税
古民家の床下をよく見てみると、下に動物などが入らないように、このように閉じた空間の場合もあれば、
このように「石場建(いしばだて)」で床を上げてある建物もありました。
説明員さんの話によると、寒い地方では冬場に農作物を税金として納めることができないため、火薬や絹糸を税金として納めていたそうです。
その際に作った火薬を床下に収納・保管していたため、こちらの古民家の床下は上げてあるのだそうです。
床下には作った火薬を保存し、二階以上では養蚕(ようさん)で「蚕(かいこ)」を飼い、絹糸を作り、税金として納めていたそうです。
二階以上は養蚕に使われていたため広い間取りが必要となり、古い時代にも関わらず、このような4階建ての建物などもあったそうです。
かやぶき屋根は分厚い
昔は、屋根と言えば「茅葺(かやぶき)」で、ススキやヨシ、わらなどの植物を何層にも重ねて雨風から家を守っていました。時代劇などでは、城下町の家が全て瓦(かわら)屋根であったりしますが、実際には瓦屋根を葺ける家は富裕層である武家や商家だけで、庶民はかやぶきの屋根の家に住んでいるのが一般的でした。
近くで見ると、わらの断面がいかに分厚い層であるかが分かります。
用途によって違う囲炉裏(いろり)
とある古民家では二つ並んだ部屋にひとつずつ囲炉裏が設置されていました。なぜ同じ家に二つも囲炉裏があるのかと説明文を読んでみると、
こちらの囲炉裏は「おえ」と呼ばれる、家族が食事や休息をする場で、
その隣にある部屋の囲炉裏は「でい」と呼ばれ、来客をもてなす場だったそうです。
昔の台所
農家の囲炉裏部屋と違い、商家や武家には板敷きのきちんとした「台所」が存在しました。見ての通り、水を汲むための桶(おけ)、食器箪笥の上にはせいろやざるなど、調理器具が収納してあります。
水車小屋
こちらの水車小屋は19世紀中期に長野県長野市上カ屋にあったものです。車輪の直径3.6mで、現地では「クルマヤ」と呼ばれていました。
内部には「つきうす」や「ひきうす」があり、木製の歯車装置によって、製粉、精米、そば打ちが行われていました。
菅原家住宅
現在の山形県、当時の出羽三山から移築された妻入り農家です。
入り口入って右側には農具の収納庫があり「背負子(しょいこ)」などが収納されており、
その奥には馬小屋があり、機能的な動線となっています。
昔の馬は、移動手段、運搬手段、農作業の担い手などの数々の役割を持っており、家の中で家族同然に愛情を持って飼育するペットのような存在だったのかもしれません。
こちらの家は、冬は豪雪地帯となるため雪の重みで家の引き戸が空かなくなる可能性がありました。ですから、冬にスムーズに引き戸が開くように引き戸の下に「コロ」が設置されていました。現代の扉にも通ずる生活の知恵ですね。
また、作物がとれる時期にはねずみが作物を食べてしまいかねないため、猫を飼う家が多かったそうです。冬の寒さで引き戸を締めた際に、猫が通れるようにこのような猫穴が扉の裏に設置されていました。
この地域は、冬になると豪雪地帯となり一階部分は雪で埋め尽くされてしまったため、冬場はこの二階の窓が出入口となったそうです。紙一枚で雨風がしのげるの?寒くないの?と思われるかもしれませんが、品質の良い繊維を使った雨風に耐えうる強度の和紙を使っていたので大丈夫だそうです。さらには、この障子の前を「むしろ」で覆ったりする工夫もしていたため、寒さや雨風をしのぐには十分だったようです。
広瀬家住宅
広瀬家住宅は、切妻屋根で軒が低く、壁の多い閉鎖的な甲州住宅です。右側に写り込んでいる人の身長と比べると屋根がとても低いのが分かります。身長160㎝の私でも、かがまないと屋内に入れないほど屋根が低く、夫も屋内から出る際にうっかり頭をぶつけてしまいました。
なぜ広瀬家の屋根がこれほどまで低いかというと、広瀬家の旧所在地が山梨県塩山市北方の大菩薩峠付近を源流とする、笛吹川の支流の東岸・上萩原中小沢だったことが理由です。峠に家があったため、峠から吹き上げてくる強風で屋根が壊れないために前側の屋根を低く作っているのだそうです。ですから裏側の屋根はこれほどまでに低くはありません。
古民家を見学すればするほど、昔の人の生活に知恵、工夫に感心させられます。
沖永良部の高倉
こちらは沖永良部島から移設されてきた穀物貯蔵庫です。太い4本の柱の上部に穀物を収納する場所を設け、ネズミなど害獣の進入を防ぐ工夫がなされています。沖永良部島は南国で温かい風土のため、動物による作物の被害が多かったのかもしれません。
まとめ
SDGs(持続可能な世界)の必要性が重要視される昨今、電気も水道もガスもなかった時代に、建物や生活様式に様々な工夫をして合理的に暮らしていた昔の人々。その様子を垣間見ることができたのは、非常に有益な体験でした。
オンシーズンには「説明員」さんが各所にいらっしゃり、積極的に建物やその背景にある文化の説明をしてくれるので、行くならオンシーズンをお勧めします。
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