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50代、精神疾患持ちのシニア主婦ブログ。

歳をとったら達観すべきか、いつまでも若いのよと思い続けるのか問題

おばさんと呼ばれるのはイヤ?

  私の若い頃の美学として、「謙虚であること。」というのがありました。

 そう思うに至ったきっかけは、小学生の頃の思い出にあります。けがをして小児病棟に入院していた時に、同室だった女の子のお母さんが、毎日のように様子を見に来ていました。小学生の私にとって、同世代の女の子のお母さんといったら「おばさん」でした。同室の小学生の母親ですから、年齢で言えば30代くらいだったのだと思います。

昔の30代は老けていた

 今でこそ日本人全体の見た目年齢が若返って、30代くらいなら「おねえさん」に見える場合も少なくありません。ですが、私が子供だった昭和の中頃くらいでは、30代の見た目は、年齢相応のしわやたるみがあり、どっからどうみても「おばさん」でした。

自分の容姿の劣化を受け入れられない中年

 ですから、子供だった私は何の悪気もなく、そのお母さんに「おばさん!」と呼びかけました。すると、そのお母さんは「悪いんだけど、『おねえさん』と呼んでくれない?」と言ってきたのです。

 私は子供心に、どっからどうみても老け顔のそのおばさんが、「おねえさん」と呼べといってきたことに納得がいきませんでした。なんと説明すればいいのか分かりませんが、とにかく、子供ながらにそのおばさんの言動そのものが「カッコ悪い…」と思えてしまったのです。

説明しようのない嫌悪感

 無理くり言葉にしようとするなら、「どっからどう見てもおばさんなのに、若く思われたいがあまりに、子供におねえさんと呼ばようとする見栄がカッコ悪い。」と思ったのかもしれません。

 あるいは、「現在の自分を客観視できない、現在の自分の現実を受け入れられない大人気のなさがカッコ悪い。」と思ったのかもしれません。

私自身の年齢自認

 ですから、私はその頃から「自分が30歳になったら、おばさんだと思おう。50歳になったら、おばあさんだと思おう。」と、自分の年齢自認を決めていました。実際には、30代を過ぎて「おばさん」と呼ばれたのは1回だけでしたし、50歳を過ぎても「おばあさん」と呼ばれないどころか、「おばさん」とも呼ばれませんでした。最近の若い人や、知識層は老人に本当に気を使ってくれていて、どんなにおばさんやおばあさんに見えても、「おねえさん」と呼んでくれたり、「マダム」と呼んでくれたりします。最近の若者は本当に賢くなったと、こうべを垂れる気持ちでいっぱいになります。

嫌悪感の正体

 この記事を書きながら思ったのですが、子供の頃に感じた嫌悪感のようなものの正体は、そのおばさんが歳を重ねることに、「覚悟」を持っていなかったことに対する嫌悪感だったのではなかったのかと思います。

 ですから、私は、歳を重ねるにつれて、人はより謙虚に達観すべきだという思い込みを持つようになりました。ですが、人間というのは不合理なもので、子供の頃にそんなことを思っていた私も、50代になって「若いですねー。」なんて言われちゃうと、嬉しくなってしまうのが本音なのです。

 それでも、やはり、もう歳も歳ですから、「おばあちゃん」とか「おばあさん」と呼ばれても、がっかりしたり、「失礼ね!」なんて思うメンタリティではありたくないとも思います。

勲章は捨てて、今を生きる

 そんな私は、若い頃から過去の栄光にすがることもカッコ悪いと思っていて、何かで評価されてもらった賞状や盾も全部捨ててしまいました。今となっては、老後の自慢話の種がなくなったなーと思う時もあります。ですが、タレントの高田純次氏が「歳をとったら、愚痴と説教と自慢話はしちゃいけない。」と言っていて、自慢話の材料にしかならない賞状なんて、捨てて良かったのだと思ったりもします。

 結局、過去の自慢話をしたり、若者に説教(アドバイス)をしたりする老人は、「今を生きていない。」し、「自分を生きていない。」という感じがして、どうにも苦手なのです。

 老人になっても、今、夢中になれる楽しいことがあれば、過去の自慢話なんかしていないだろうし、自分自身を高めること(少なくとも現状維持すること)に力を注いでいれば、若者や我が子に説教(アドバイス)をして、自分の影響力を確認する必要なんてないと思えてしまうんですよね。

 歳を重ねたら、自分の背中を、次の世代に見せるだけでいいんだと思うんですよね。自分の人生が良い前例だっとしても、悪い前例だっとしても、次に続く人達は、そこから学ぶと思うんですよね。若者には、自分で考え、学ぶ力があると思うのです。そう、信じることが大切なのだと思います。

結局みんな生涯現役でいたい?

 子供の頃や若い頃は、「私はいつまでも若いのよ!」と張り切っている老人のことをカッコ悪いと思っていました。だって、そういうことを言ったり、そういう雰囲気を出している老人ほど、「言うほど大したことができない」ことが多かったからです。

 ですが、自分が老人になって、趣味でブログや動画などの新しいことに取り組み始めたことを思うと、「結局、私だっていつまでも新しいことを始めたいし、いつまでも現役でいたいんじゃん…」と、また、自分の中にある不合理に気付いてしまうのです。

老人の偽善

 私が、「いつまでも若くいたい老人」に嫌悪感を持っていたのは、つまるところ、そういう雰囲気を出す老人は「人を巻き込む」から嫌だったのだと思います。特に、我が子や若い人に口出しすることで自己承認欲求を見たす老人が、昭和には本当に多かったのです。しかも、そういう老人は無意識下で、「あなたのため。」と思い込んでいるように見えて、余計に嫌だったかもしれません。誰だって自分の頭で考えたいし、自分のペースで物事を進めたいのではないでしょうか?

 私自身が老人になって、印象に残っている大人というのは、どんなに私がいたらなくても「黙って見守ってくれていた大人」でした。そして、「さすがにそれは危なすぎる」という時にだけ、的確な一言で制止してくれる大人でした。私も、そんな大人になれるだろうか?そんな大人になれているだろうか?と、時々思うことがあります。

まとめ

 最近は、若者から老人まで所属しているサークルに入っているので、より自分の言動に気を遣うようになりました。私にとっての、「気を遣う」というのは「遠慮する」ということではなく、上記の大人のように、いかに相手を「黙って見守るか。」ということです。口を挟みすぎず、かといって慎みすぎず、「言うべきことを、言うべきタイミングで言う。」というテクニックが必要になってくると思っています。

 私は、自分があこがれていた大人になれるだろうか、なれただろうか。その問いかけは、一生自分自身に向かって発せられ続けるのかもしれません。

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