増田で「京都の○ミ大学」ってタグ付けされてるのって、この大学じゃないの?といううわさがある大学行きのバスにのって、ここが終点。こっから歩いて龍安寺に行ってまいりましたー。
初めて龍安寺に行ったのは、19歳か20歳か。。20代前半なのは確かですね。
もう、何度か来たことのある石庭ですが、昔は、写真撮影が禁止だったのに、今はみんなパシャパシャと写真を撮っていて、時代は変わったものだだなーと思いました。私もブログ用にマイタブレットでパシャリと撮ってまいりました。
今回、また、この石庭に来て、なんだか、20歳くらいにここに来たときのことを思い出してしまいました。その後も何回か来ているはずなのに、覚えているのは一番最初来た時のことだけ。その時はオフシーズンだったんでしょうか、それとも閉館時間が近い時間だったのか、本当に人が少なくて、一人で正座して、石庭を眺めていました。
そうするとなぜだか、涙がぽろぽろとこぼれてきて、涙をぬぐいながら、立って、別の場所に移動して、また正座して、また違う景色をながめて、また違う位置に座ってながめてって。どうして、そんなに涙が出たのか、あの時の気持ちはわかりませんが、石庭が美しすぎたということと、ちょうど父親が死んで、家族の闇まっさかりだったとか、恋人と別れて傷心だったとか、大学での学業と、仕事しかない毎日がつらかったとか、たぶん、そのうちのどれかだったか、いくつかがかさなったか。。私は本当に記憶力が弱くて、どの時期に何があったかとか、時系列も全く覚えてなくて、日記を書いても、記憶があいまい。
今回、京都に来るとき「秋の京都」は混むよ。と、関西出身の友人に忠告されたのですが、混んでいる時期に京都に来たことがなかったので、混んでいる京都って、こんなふうなんだ。。って、少し驚きました。修学旅行の団体とか、中年の旅行者の団体とか、欧米人の団体とか、中国人の団体とか。こんなに、ずらーっと人が並んで座っている龍安寺に来たことがなかったので、友人の忠告を聞いておくべきだったと、ちょっと反省。
でも、せっかく来たのだから、と座って石庭を見ていると、最初の5分くらいは落ち着くというか、癒されるというか、心が浄化されていくんだけれども、もっと時間がたってくると、また、涙がぽろぽろと出てきてしまって、両隣に修学旅行の中学生?高校生?が座っているから、恥ずかしかったんだけど、だけど、出ちゃうものは止まらない。ハンカチは持っていたんだけど、ハンカチで涙を拭くと、いかにも泣いてるみたいで恥ずかしくって、カーディガンのすそで涙を拭きながら、ずっと座っていました。となりの中学生が、外国人の親子連れに代わって、中年のおじさんに代わってってなっても、涙は止まらないし、もっと見ていたいしで、みんな楽しそうにワイワイいいながら石庭をみているなかで、私一人が号泣してるなんて、明らかに変ですよね(笑)
でも、今回、号泣したことで、
「あ、そういえば20歳のあの時も号泣したなー。」って、思い出しちゃいました。なんていうか、青臭い思い出ですが、さわやかで懐かしい思い出でもあります。
そして、なんとなく、私が龍安寺の石庭にくると泣き出してしまう理由もわかった気がしたんですよね。私の中には、何かとっても濃度の高いものがあって、それは、濃い猛毒なのかもしれないし、強烈な孤独なのかもしれないし、あるいは危なげな狂気なのかもしれない。もし、龍安寺の石庭が「般若心経」でいうところの「無の世界」なのであれば、石庭に座り込んで5分も座っていると、石庭と私の心がつながって一体になってしまって、浸透圧のように、私の中にあるものを、すーーっと吸い取ってくれるというか、薄めてくれるというか、そんな気がするのです。
だから、最初のコンタクトの5分間は癒されるんだけど、それからは急に感情が沸き立って、涙が止まらなくなって、最後のほうは放心状態で、なんというか、エネルギーまで吸い取られたような脱力感になってしまうの。それで、もう無理。。って帰るんだけど、今回は混みすぎていて
「ほらほら!遠慮してたら座れないよ!空いたらさっさと座りなさいよ!」という、中学の引率の人の声に、我に帰って、あ、席を空けてあげなければ…っていう感じで、消化不良な感じで、その場を離れました。混んでいない時期に来ます。ほんと、秋はもういいや。
それとは別の話で、混みすぎていて、いろんな団体さんのガイドさんが石庭についていろんな説明を加えていたり、観光客の方々があちこちでいろんなうんちくを語っていたりしたのが、ちょっと騒々しくてイヤだったり、意外と面白いなって思ったりで、その面白かったほうのいくつかを書いておきます。
あるガイドさんは、15個ある石のうちの1個が見えない配置になっている、とか、奥のほうに傾斜がついていて遠近法で目の錯覚をうまく利用して、奥行きを出しているといったような、基本的な構造について説明していらっしゃいまいた。(確か、奥行きを出すために塀にも傾斜がついているんじゃなかったかな?忘れた。)
あるガイドさんは、中学生にわかりやすく説明しようとガンバっていらっしゃって、
「どういうふうにみるというのはないから、自由にみればいいんだけど、
あの砂利の部分を海に見立てればあの岩が、島に見えますよね。
そらに見立てれば岩は雲に見えますよね。
別の見方で、あの大きな岩を観音様と例えれば、
ほかの四つが四天王とも例えられます。」
と、説明していらっしゃいました。
もう一人の年配のガイドさんは、子供にはわからないと思ったんでしょうね。
「まあ、どんなふうに見てもいいんですけど、
まあ、大人になったら、もう一回来なさい。
大人になってからこれを見たら悟りが開けるかもしれませんよ。」
「大人になったら、彼女と来てもいいですけど、
彼女と来たら悟りが開けないかもしれませんから、
彼女に振られた時に見にきなさい。
そうしたら悟りが開けるかもしれませんよ。
昔は、ここで多くのお坊さんが悟りを開いたんですよ。」
と、おっしゃっていました。それを聞いているのか、いないのか、中学生たちは
「見てもわかんねー。」と、つまらなさそうにしていました。
そんな、ガイドのおじさんと中学生のほほえましいすれ違いに、
号泣しながらも、なんだか微笑んでしまいました。
なんとなく、隣の中学生が私のほうを見ているような気がしましたが、恥ずかしいので、下を向いて涙をぬぐいながら、おかしくて笑ってしまいました。
私としては、最後の「失恋したら、悟りを開きに龍安寺に行け!」という説明が、一番、若い人には分かりやすい説明だと思ったのですが、みなさんはどう、お感じでしょうか?
そんな、こんなの龍安寺デトックスでした。