■死体を見た時、人は成長する
私自身の体験でいうと人が大きく成長する時というのは、
どんな時かというと、
「愛着のある人の死体を見た時」だと思うのです。
死体は死体でも、なんの愛着も持っていない人の死体を見たのでは
人は成長できないのです。
たとえば、家族の死体、母親、父親の死体を子供が葬式で見たとしても、
愛着がなければ、ただのお葬式への参列という行事でしかありません。
逆に、血はつながっていなくとも、人生を教えてくれた恩師、
人生をともに戦ったと思える上司、同僚、友人の死体を見た時、
人は大きく成長するのです。
親族か、他人かは関係なく
愛着や尊敬を持つことのできた人物の死が人を育てると思うのです。
■子供には生きざまとともに死にざまを見せるべき
大人は、家族中心の生き様でも、自分の人生が主軸の生き様でも
どちらの生きざまを見せてもいいし、
子供はそのどちらの生きざまをみせても
何かを学びとります。
どんなに人様からみて不思議な生き方に見えても、
そこにしっかりた軸や芯があるとき、そして、それがブレないとき
子供や、若者たちは、そこから何かを学びとります。
ですが、大人たちが後進をそだてようとするとき、
生きざまをみせるだけではなく、死にざまを、死んでいく姿を
自分自身の「死体」を、はっきりと、見せたほうがよいのです。
■子供や若者こそ、病室に呼ぶべき
自分の弱っている姿を人に見せたくないと、
子供や、孫や、友人知人と最期まで会わずに死んでいく人もいます。
ですが私は、命の炎が燃え尽きるその瞬間の、
その一瞬の最後のきらめきのようなものを
人に見せて死んだ方が、残された人に対して
より多くのことを教えて死ねるのだと思うのです。
■学校よりも塾よりも「死」の瞬間
成人に満たない子供を持つ親たちは、
自分の愛着のある人物が死んでいく姿を
我が子に見せながら育てるべきだと私は考えるのです。
たとえば、愛する自分の母親ががんで死のうとしている大人たちは
我が子に学校を休ませてでも、塾を休ませてでも、
飛行機代がどんなに高くても
入院して弱っている母親(=おばあちゃん)の姿を、
死んでいく母親の姿を
そして母親の死体を、わが子に見せるべきなのです。
愛する人を失って悲しむ大人たちの姿を見せるべきなのです。
人の命はいつか失われると教えるべきなのです。
■人の死体なんか見たらトラウマになる?
トラウマになるから見せたくないという親もいるかもしれません。
ですが、小学校高学年から中学校くらいまでには
子供は死生観についておのずと考え始めます。
その時に、子供達が何のヒントも持ち合わせないほうが
私は不憫だと思うのです。
あなたに子供がいるとして、
「人は死んだらどうなるの?」とか
「父さん(母さん)、僕(私)死ぬのが怖いんだけどどうしたらいい?」
とわが子にきかれて、どう、答えますか?
私は小学校高学年のころ、父親に
「人間って死んだらどうなるの?」と聞いたことがあります。
父は
「死んだら無だ。どうもならない。消えてなくなるだけだ。」
と、答えました。
まったく正しい答えです。
大したことを話さなくても、子供たちはそこから自分自身で学びます。
死生観を学ぶということは、子供にとって大きな苦しみを伴います。
ですが、それなくして子供は大人にはなれません。
子どもたちは、20年、30年かけて死生観を学ぶでしょう。
死生観を身につけ、
自分の死を受け入れるには少なくても、それくらいの時間がかかると
私は思うのです。ですから、スタートが早いほうが、
乗り越える時期も早まるように感じるのです。
そして、脇で子供の心を支えなければいけない大人たちが
しっかりとした「死生観」を持っていることが、
やはり望ましいと思うのです。