良質節約生活 100万円/1年

50代、精神疾患持ちのシニア主婦ブログ。

【私の思い出】忘れられない10円玉

 

父の暴力から逃げた母

 私は小学校に上がる2年前くらいから、重度の統合失調症の父との父子家庭で生活していた。だが、その前に一瞬だけ、母と暮らしていた時期があった。その時のことを書いてみたいと思う。

 私が本当に小さい頃、働かずひどい暴力を振るう父を見限って、母は子供を連れて父の家を出た。どのくらいひどい暴力かと言うと、髪の毛をつかんで母を引きずり回した際に髪の毛が一束抜けるくらいの暴力だ。もちろん、殴る蹴るの暴力もあった。

 こういった暴力は私も父から受けていたので、父の暴力がどれほど酷いものが私は知っている。だから、当時、母が父から逃げ出したのは当然のことだと思える。だから、両親の離婚には何のしこりも感じていない。

母を執拗に探し回る女性嫌悪の父

 母は父親の暴力に耐えかねて、一旦は、実家に逃げ帰った。だが、典型的な女性嫌悪の男性である父は、女性を憎み、ののしり、暴力をふるいながらも、反面で強く強く、女性に「無償の愛」を求めていた。父の場合は、その「無償の愛」を、すぐ近くに住んでいる実の母(父方の祖母)に対してではなく、私の母に求めていたのだ。だが、母は見合い結婚で「結婚しろと言われたからしただけ。」というタイプ。父に好意など持ったことがないので、愛し方など分からない。機転の利くタイプでもないので、父の歪んだ心を受け止める度量もない。だが、父はとにかく誰かに愛されたい。父と母は致命的に相性が悪かった。

 というわけで、父は母のストーカーになった。当然、逃げ込んだ母の実家、つまり私にとっては「祖母」の家にも妻を返してくれと直談判にきた。私はその時の様子を鮮明に覚えている。母と祖母宅の二階の雨戸の隙間から父がやってくるの見つけて、怖くてドキドキした。そして父が、「ごめんください。」と声を掛けて、祖母が対応した。母と私は二階の雨戸の隙間から、一階を見下ろしながらヒヤヒヤしていた。

 祖母の「娘はここにはいません。」という言葉を鮮明に覚えている。子供ながらに祖母は厳格な人だと思っていたので、そんなにさらっと嘘をつく人だと思っていなかったからだ。「おばあちゃんて、こんなに自然に嘘をつける人なんだ…」と子供心に少し驚いた。

 父親は「家族=身内」だと思った相手にはひどいことをしたが、「他人=母方の祖母」には強いことは言えなかった。典型的な内弁慶の人間だ。そもそも祖母は教師だったので、妙な貫禄があった。祖母の堂々とした態度に小心者の父はたじろいだのだろう。数分で追い返されてしまった。それを、二階から見ていた母と私は、ほっと息をなでおろした。 

父に見つからない街に母と引っ越した

 そして記憶の場面は変わって、母の実家からも父の家からも少し遠い街で、私は母と暮らしていた。母と暮らす6畳風呂なしのアパートから、保育園?幼稚園?に通っていた。父の執拗な捜索に親戚の家に逃げ込んだのでは見つかるということになり、知らない土地にアパートを借りたのではなかろうか。ちなみに、母はそこからバスでしばらく行った病院の給食婦として働いていた。

 当時の手に食もなく、就業経験もないシングルマザーの給料は 今では考えられないくらい少なかった。 母の月給は手取りで8〜9万円だった。金額は知らないがボーナスももらっていたらしいので一応正社員のような雇用形態だったようだ 。

 しかも私の母の休日は一か月に2日のみ。現在の労働法では確実に引っかかるようなひどい状態だった。当時の労働法でも引っかかっていたのかもしれないが 、女性が就労できる職場が少ない時代で、なおかつ女性が(家の)外で働くなんて非常識だという輩もまだまだいた時代に、しかも田舎のシングルマザーが労働法なんて言っていられる状況ではなかった。

 うちの母のように働いたこともなく、手に職もない子持ちの中年女性が田舎の職安に行ったところで、紹介してもらえる仕事はなかったのだろう。あの時代に田舎で就労経験が皆無な中年女性が就けるまともな仕事と言ったら掃除婦、給食婦(※1)くらいだったのだろうと思う。だが、そういった仕事でさえも競争率が高く、就業するのは非常に困難だったろうと思える。

 母はとても一人で職安に行って職員と話をできるようなタイプでもないし、キビキビした職場で働けるタイプでもない。だから祖母が、私の母(のようにできの悪い人)でも置いてくれるような、信頼のできる経営者の知人を探し回って、安心できる経営者の元で働かせることにしたようだ。

 だが、無能がお情けで雇ってもらうのだから、給与、労働条件に関しては文句を言わないという、暗黙の了解があったかもしれない。でなければ、”あの母”が定年まで働けるなんて考えられない。

 今考えればだが、母の思慮の足りなさ、考えの浅さ、学習能力の低さは、知能の低さや、学習障害に所以しているのではないかと思える。それくらい、母は物の分からない女性だった。

母との生活

 その頃私はちびっこで、母が子守唄を歌ってくれないと眠れない子だった。夜になると母が私を寝かしつけようとした。私が「かあさん、子守唄うたって。」と言うと、母は子守唄を歌ってくれた。

 風呂なしのアパート住まいなので、夜は母と銭湯に行った。その帰り道に煌々と照らされたジュースの自動販売機があって、私にとってはそれは高級品の並んだ宝箱だった。高級品だから、買ってもらえないのも知っている。でも、どうしても飲んでみたくて「かあさん、ジュース買って…」と言ってみた。もしかしたら、買ってもらえるかも…という淡い期待と共に。

「ダメ、家に帰ったら麦茶があるから、麦茶にしなさい。」

 缶ジュース(100円)なんて高いもの、そうそう買ってもらえるわけないか…と、そんなに不服には思わなかった。ただ、母に経済的に余裕がないのは子供心に感じでいて、私としては勇気を振り絞ってねだったつもりだったので、拒絶されて、とても恥ずかしかった記憶がある。

 それに、当時はまだペットボトル飲料も販売されていない時代だった。だから、飲み物は家で作るもので、缶ジュースは高級品というのは一般的な感覚だったかもしれない。

勇気を出して10円をねだった日

 ある日の昼間に、ちびっこの私は自販機に書いてある小銭の絵を見つけた。10円玉、50円玉、100円玉の絵が書いてあったのだ。ちびっこだった私は、「そうか!ジュースは100円でしか買えないと思ってたけど、10円でも買えるんだ!」と思い込んだ。

 100円は高すぎて、母に気を使って「ちょうだい。」とは言えないが、10円なら言える。私は早速、家に帰って母に「10円ちょうだい!」と言った。100円だったら即座にノーと言われるのが目に見えていたが、10円ならもらえるかもしれない。私の予感は当たった。母は「何に使うの?」と言いながら財布から10円を取り出して、私にくれた。「ないしょ。」と、私は、意気揚々と自販機に向かった。

ジュースが買える!

 ジュースが買える!と、楽しみでしょうがなかった。そして自販機の前に到着し、10円玉を入れ、選んだジュースのボタンを押した。……ジュースは落ちてこなかった…とても寂しかった…

 ジュースが落ちて来なかったこと、母から10円をむしり取ってしまったこと、全てが悲しかった。そして、ちびっこだったために返却レバーというものを知らず、その10円は返って来なかった。そして、そのことは、誰にも言えなかった。ただ、とぼとぼと、家に帰って何も言わなかった。

 数日後、母が「そういえばちよさん、あの10円は何に使ったの?」と聞いてきた。

 

私:「ジュースが10円で買えるって書いてあったから、10円を入れたけど買えなかった…」

母「ジュースは100円じゃないと買えないよ。10円では買えないよ。」

私「でも、じはんきに、10円の絵があったから、買えると思った…」

母「あれは、10円玉も使えますよっていう意味よ。」

 

 この出来事は、ここまでしか覚えていない。その後に何か話したのか、そうでないのか、全く覚えていない。

 ただ、この歳になると、その時の母の気持ちを考えてしまう。ちいさな子供にたった100円のジュースも買ってやれない自分のふがいなさを、母は嘆いていたのだろうか。我が子が100円のジュース欲しさに10円玉を握りしめて、自販機に向かって走っていく姿を想像して、母はどんな思いだったのだろうか。この先、どうやって生きていけばいいのかと不安で不安でしょうがなかったのではなかろうか?想像ばかりが先走る。「生活に対する不安」の苦しみは、大人になれば分かるが、大人にならなないと分からない。そういうものだ。

この出来事を何十年も忘れられない

 小学校になっても、中学校になっても、高校になっても、働くようになっても、この出来事が忘れられなかった。あの時の私の行動が、母に悲しい思いをさせたのではないかと、ずっと後悔していた。

 母はとても弱々しい人で、とてもじゃないけど母に任せておけば大丈夫というタイプの人ではなかった。子供ながらに母に対して、とても気を使っていたし、幼稚園の頃にはもうすでに「(お母さんを守るために)私がしっかりしなければ!」と思っていたほどには、頼りなかった。

 母は問題が起こっても対処することができず、ただただオロオロするか、または悲しむ・嘆くタイプの人だった。だが、おとなしく、素直で優しい人だった。今思えば、あの処理能力の低さは学習障害ではなかったのだろうかと思えるが、いまさらそんなことに気づいたところでどうにもならない。母はすでに亡くなっているのだから。 

母に気を使うところから私の子供らしさは失われていった

 母は父に居場所を見つけられることを非常に恐れ、怖がっていた。そんな時に私は「とうちゃんが来たら、私が戦って守ってあげるから大丈夫!こうやって、パンチして、キックして…」と、パンチやキックの真似をしながら、母を励ました。子供なのではっきりと認識していたわけではないが、この人(母)にはお金も、能力も、知識も、余裕もないんだと何となく感じていた。だから、幼稚園の頃には私がしっかりしなければという責任感を感じ始めてた。

 その頃から、私は人(=母)に気を使うこと、私さえ我慢すれば…の感覚を覚えた。大人になり精神科のデイケアで集団行動を観察された際に、医師に「周囲に気を使いすぎ、我慢しすぎ、周囲に配慮することにエネルギーを使いすぎ。」と言われるほどまでに。※2

 この出来事は私の人生観にもつながっている

  私が、結婚を拒み続けた理由、子供を持つことを諦めた理由は、こういった思い出も関係あるかもしれない。親になるとあんなつらい思いをする、お金が稼げないのに子供を作ったら地獄だ、と、母との生活で無意識に学んだと思われる。

 その後、やはり、父が執念で母の居場所を探し、母の家に乗り込み、もう逃げ回るの不可能ということになり、両家親族を集めて親族会議が行われた。

 離婚したら、子供を物のように取ったり取られたりするし、挙げ句の果てには育てきれなくて育児放棄と虐待をする、と私は自分自身の家庭で学んでしまった。そして、私は子供の頃から「結婚て地獄だよな。」という考えを持つようになった。

 そして、私は独身主義者となり、40歳近くまで恋愛を楽しむ人生を送ることとなった。結果としては婚姻契約を交わし、今は配偶者がいるが、そんなものはいつでも解除できるし、いつでも一人に戻れると思っている。

 私の人生は私のものだ。祖母の呪縛で女性を憎みながら死んでいった父。父の呪縛で男性を恐れながら死んでいった母。私は、そんなふうにはならない。自分の人生を生きて、自分の人生で死ぬのだと、今でも強く強く思っているのだ。

おわり

 

※1:当時は清掃員・給食員を掃除婦・給食婦と呼び、実際に女性ばかりが従事していたので、その当時の表現をしました。

※2:ネットではリアル社会で隠している部分を出しているので、そうは見えないでしょうね。

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